鬼神天武・準公式Web小説 ―智将―
作 : 古畑 様


「……利様」
 己を呼ぶ声が遠くに聞こえる。耳に届けど脳に届かず。深く意思が、沈んでいる。
 瞼が重く開かない原因は心地良き風か。肌を撫ぜる感覚が、実に良い。
 ああ起こすな起こすなやかましい。もう少しだけこの感覚に浸らせ――
「毛利様。毛利、元就様」
「……むっ」
 ……が。起きぬわけにもいかぬか。配下の者の重なる声に、ようやく目を覚ます。
 ぼやける視界が徐々に正常へ。どうやら座ったまま寝ていたようだ。
 政務の途中。筆を机に転がして。いかんいかんと呟けば、
「……うたた寝をしてしまっていたか。やれやれ、晩年でもあるまいに。
 生前の感覚がまだ抜けていないようだ」
 背を正す。眠気を弾くはそれだけで良しとして。意識を完全に取り戻す彼は――毛利元就と言う。
 戦国時代。二百を超える戦を指揮し、その八割以上を勝利に導いた戦国最高の智将である。死後には謀神とも呼ばれた彼は、七十五の折に老衰により死亡した。戦場による死ではなく、天寿の全うを果たしているのだ。
 故にか。神格化された“毛利元就”という一個人は鬼神への転生条件を満たしていた。
 妖の力を得て。彼は再びこの世へと舞い戻って来たのだ。

 …………が。

 既にこの時点で、智将には取り返しのつかない大誤算が生じていた。
 それが何かと言うと――そう。
 生前とは違う長い髪。
 全体的にこじんまりとした身長。
 白く細い、己が腕。胸元にある小さな膨らみは――
 一言で言えば。彼が“男性体”ではなく“女性体”であることを示している。

 ……何の因果かの。これは

 思考する。はてさて転生は良しとしても何故女性の体なのだろうか。
 うら若き、乙女の体。“知”を振るうに問題無い故、別に構わないと言えば構わないのだが。慣れぬ。ただ只管に体に慣れない。
 生前。数多の謀略を駆使し数多の戦を攻略してきたが――まさか転生後、早速に厠の攻略に四苦八苦するとは思わなかった。今思い出しても苦笑するしかない。配下の手前、そんな様子を出すわけにもいかないが、と。
「して。何用か? 急ぎであるのだろう?」
「はっ。至急お耳に入れたいことがありまして……丹後が、鬼の手により落ちました」
 要らぬ思考は切り落とし。ほう、と元就は扇子を広げ、顔に仰ぐ。
 丹後。それは、元就のいるこの地“安芸”の北東に位置する国だ。
 そこが落ちたという。隣国である丹後が落ちた、と。ならば今後の戦略を少し練り直さねばならぬ。落としたのはどこか。都の晴明か。大和の菅原か。あるいは妖魔にでも――
「首魁は鬼の頭目、酒呑童子との事。既に丹後は完全に制圧されております」
 ――酒呑童子。古の、大鬼か。
 生前に書物で読んだことのある名だ。たしか源頼光に退治された名がそうであったか。
 成程。それが騙り名でなければ、また現れたという事か。
「新しき鬼神が、の」
 これで何体目か。いよいよもって乱世の様相となってきた。
「しかしこれまた……“大鬼”が“鬼神”に成るとはな。まぁよい……軍勢の数は?」
「妖魔が一万。それ以外は、まだ確認中で御座います」
 妖魔一万。いきなりにそれだけの数の鬼を用意しているとは。流石は鬼の頂点に立ちし存在か。
 どこぞに潜伏していた鬼達の一大決起という訳だ。丹後はもはや人の住まう国になっておるまい。そういえば酒呑童子といえば若き姫肉が好みであるという伝承を聞いたことがあるが……
「フフッ。いや全く本当に、何の因果か」
 ――この体では酒呑童子が狙ってくるやもしれぬ。
 中身は女ではないが。肉の味ならば酒呑童子にとっては関係ない。
 外は女。内は爺の人っ子を。黄泉帰りし鬼が肉を求めて必死に追う――

 笑いで吹き出しそうになる。

 一方。鬼の大軍勢が近くに居る不安からか配下の顔色は宜しくない。故に、
「何。ただの力自慢であるならば如何様にでも対応できる。
 鬼が一万は脅威であるが……恐らくそれ以外の数はさほどでもなかろう。
 こちらが優位だ。来るなら真正面からでも叩き潰すのみよ」
 一言、安心させるための声を掛けてやる。
 この国も入念に準備しているのだ。やろうと思えば“都”の兵とも戦える。
 一個人の武勇を否定はしないが。戦争とは前段階の準備と兵力が物を言うのだ。ただ性能が高いだけの“集団”など統率された“軍勢”の相手には成らぬという事を教えてやる。
「それよりも、だ」
 扇子を机に。肩肘を突いて。
 彼は、言う。
「矢が足らんな」
「矢……で、御座いますか? 承りました。すぐに職人へ手配を――」
「はは。違う違う。そうではない」
 矢とは武具の事ではない。
 生前には、元就の下には“三本の矢”があった。それがまだ足りぬと言っているのだ。
 如何に知を振るおうと。謀略による嵐を巻き起こそうと――私一人で戦に勝てるものか。
 必要だ。もうすぐ迎える、この乱世にあって。
 兵を指揮できる“矢”が……せめて。あともう一本。
「毛利様――失礼します」
 と、その時。配下がもう一人入って来た。
 今度は急ぎでなさそうだ。顔に焦りが無い。
 うん? ああ、いやそうか。この者に命じたことは……
「先日命ぜられました将候補の選定ですが。結果のご報告に参りました」
 来たか。
「で、どうであった?」
「はっ。軍より一名、該当者が。如何なさいますか?」
「そうか」
 では通せ。と元就は告げる。
 まずは会ってみなくば話にならぬ。使い物になれば良いが……
 如何に人員が足りぬとは言え、有象無象を将として使うつもりは無い。それなり以上でなければ。
「……まさか“次”があるとは思っていなかったからの」
 毛利元就は智将である。ただし“天下を取れなかった”智将である。
 彼は“天下を競望せず”と語り、ある一定の範囲で勢力の拡大を止めた。それはいい。
 しかし――あの時代。男子として生まれ。天を目指さぬ心が全くなかっただろうか?
 家名の保全。次代の為に。その心は偽り無き、真実であったが……
 今生。若き身体に黄泉帰り、
 心の奥底に秘めていた天下の夢が――
 再び燃えるとは。思ってもいなかった。
 歩く音が聞こえる。さてさて将足り得る者か。否か。さてさて。
 襖が開くと同時。
 問いかけるは、たった一言。

「――お主が四本目の矢か?」


 さてさて何と、答えるやら。


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