妖地、という国を説明するには、まず妖魔の説明が必要だろう。 妖魔とは鬼神より鬼の力を憑依された、元・人間の事である。彼らは人間時代よりも遥かに強い力を持つ生命体であり、喰う事寝る事淫らな事……三欲に関しては興味を持つ“動物”だ。 ここだけで言えば危険でしかない存在だが――彼らは基本的に、主である鬼神の制御下に置かれている。故、勝手に人を襲う事も。喰う事も。睡魔による職務放棄を行う事も無い。 そう。 「はぁ! はぁ……ッ!」 “基本的”には――だが。 「あうッ!」 林の中を一人の少年が走っていた。 彼は逃げているのだ。逃げて、逃げて、逃げ続けている。 何から? それは。 「ドコニ 逃ゲル」 後ろから追っている人――の形をした異形。 妖魔から、である。 「ドコニモ 行ケヌゾ カカ カッ カッ!」 下卑た笑いを腹の底から。まるで、狩りをするかのように妖魔は少年を追い詰めている。 少年が何かをした訳ではない。ただ不幸な事に、この妖魔の目に留まってしまっただけの事なのだ。ああ、そうだ殺そうと。理由なく、ただただ理不尽に出会ってしまっただけの事。 不幸な彼を守る者などいない。なぜならば、この国はこの妖魔によって、 支配されているのだから。 「カカカカッ! 俺ノ 国ノ ドコニ逃ゲル ノダ! カカカッ!」 妖魔に支配された国の事を、妖地と言う。 何がしかの理由で鬼神の制御から抜けた妖魔は、無秩序に人々を襲う輩と化すのだ。山賊と変わらぬが、鬼神の制御を抜けた後でもその力に衰えは無い故――力無き人々の前では天災に等しき存在となる。そしてその中には最終的に……国を奪った妖魔も存在する。 そうなればもう法は及ばぬ。助けは来ぬ。ただただ力に屈服する日々が始まるのだ。 やがて少年も体力が突き始め、妖魔と言う力に――膝を折ってしまう。されば後は捌かれるだけだ。妖魔は少年の頭を押さえつけ、舌で首筋舐め回し。 天高く。刀を掲げて―― 「おうおう待ちなそこの外道」 瞬間。何者かの声が妖魔に向けられる。 地に押し付けられながらも、少年は、見た。 二つの刀を、腰に下げた男を。 「……ナンダ、オマエハ」 「誰でも良いだろ。切った張ったに名前が必要かい? ああいや。武士っていうならまぁ名前は重要だろうけどよ。俺は違うもんでな」 「戯言ヲ……」 妖魔が男に向き直る。ああ、ああ、駄目だ。駄目だ。死んでしまう。 妖魔には勝てない。人の倍以上の身体能力を持っているのだ。どうしようもない。 しかし逃げて、とも言えない。恐怖に縛られし思考は、歯を震わせるだけで。 「逆ラウ ノ ナラバ」 殺スノミ――と続く筈の妖魔の言葉は、続かなかった。 なぜならば。 「黙れ」 七歩程離れた距離にいたはずの彼が。 もう目の前に、いたのだから。 「口がくせぇんだよ」 「――」 懐に踏み込む男。至近だ。予備動作が見えなかった。一体、今、いつの間に近寄って…… 「シッ――!」 されど妖魔も臆さず、右に持ちし刀を振るう。 至近に近付いた男の首を。手首と肘の捻りで精密に捉え、剣閃を描くのだ。その速度。およそ人の身では十何年かけて辿り着けるかどうかの領域。それを反射で行える妖魔はやはり――もう人間ではない。 これが人を辞め、鬼を得た者の一撃か。正に高速。とても追えぬ。少年の目には何が起こっているかすら分からない。 熊ですら屠られるであろう。その一撃、 を。 「わりぃな」 何時の間に持っていたのかその二つの刀は。 何時の間に振り抜いていたのかその刀は。 追えぬ一撃を、見えぬ一撃が。 容易く、上回っていた。 「ナッ……」 血飛沫。妖魔の右腕と首より溢れるソレの正体に、妖魔自身が理解した時。 「俺の方が、強かったみてぇだ」 ――この国を恐怖に至らしめた妖魔は、絶命した。 妖の体が倒れる。地に崩れ落ち、もはや二度と言葉発さぬ肉と化したのだ。 いとも、簡単に。誰も倒せないと思った、妖魔達の頭目を。この、人は―― 「おう。大丈夫だったかぁボウズ! 山賊に絡まれるたぁ運がねぇなあ」 「あっ……え、あ……はい」 「ところでよぉボウズ――」 ……山賊? 何を言っているのだろうか? 今の奴は人ではなく、どう見ても妖魔で…… 「俺は実はよぉ、妖魔っつー奴を倒しにきたんだが。探しても探しても見つかりゃしねぇんだよ。 ボウズ。この国に陣取っている妖魔って奴――知らねぇか? 強いらしいんだが」 「はいッ……!?」 ――正気で言っているのかこの人は? 向けた視線の先は妖魔、の死体。これですこれこれ。これがその妖魔です。と、言いたいが。言っていいのだろうか。なぜか悩んでしまう。しかしそんな様子に男の方から気付いたのか、彼は。 「……マジか!? ウソだろ!? これ絶対“小次郎”の方が強かったぞ!?」 嘆いた。でも本当の事だから仕方ない。嘘偽りなくこれが妖魔です。 ……いや大真面目に。一騎打ちで容易く倒している方がおかしいのだ。本来なら、結果は逆の筈…… 「……! あ! そ、そうだ! それよりも……!! 瞬間。少年は思い出した。この妖魔を“倒してしまった”事により発生し得る事態がある事に。 何もコイツは一人でこの国全てを押さえつけていた訳では無い。同じ妖魔。あるいは妖魔に付いた、欲望塗れの人間達――それら配下がいるのだ。徒党を組み、城に居座る畜生共が。 「配下がいるんです! 頭目がいなくなった事が分かったら、そいつらが暴れ出す……!」 「あ、そぉ? じゃあ全部始末してくるわ」 あっけらかんと。少年の焦りなぞどこへやら。目の前の彼は何の不安も無く、言ってのける。 俺が全部、倒して来ると。 「で。全部片付いたら――この国、俺のモンな! 祭りにちょっと乗り遅れてるんだ! こっから始まりでもまぁ悪かねぇわな!」 ハッハッハと笑う彼。その大笑いには本当に、一切の不安が無い。 信じているのだ自分を。自らなら出来ると。出来ぬ筈が無いと。どこまでも。 一見すればただの無茶無謀だ。だが…… ひょっとすれば、この人なら。この人と、なら―― 「あ、あの……僕もついて行っていいですか?!」 「ん?」 「城に行くなら人手がいる筈です! 妖魔に反感を持ってた知り合いは沢山いますし…… お役に立ちたいんです! お願いします!」 頭を下げる。そして、当の男の方は、 言われ、請われ。頭を掻く。 ……やべぇな。俺はどうにも自分を慕ってくる奴にはよええ。 生前もそうだった。一体“弟子”を何人取った事か。 ……まぁいっか。なんとでもなるだろ! 「ボウズ――」 笑顔と共に。頭を撫でて、やりながら。 「“五輪ノ書”は読んだかぁ!」 彼の名は、宮本武蔵。 戦国の世を夢見た――最強の剣豪である。 << 戻る |
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